ふたり暮らし

明日は明日の風が吹く

自分の意思だけで捨てられないもの

ふたり暮らし。自分の意思だけで捨てられないもの。

かつての自分のものは、親のものでもある

以前実家に帰った時、母の部屋のクローゼットで英和辞典を見つけた。私が中学時代に使っていたやつだ。その周辺には参考書の類が何冊も。わー懐かしい!と思ったものの、ゴミを実家に置いておいたら悪いなと思い、「これ、持って帰るね」と言って紙袋にまとめようとした。

 

母「持って帰ってどうするの?」
私「処分するよ。ほかにもあったら持って帰るから出しといて」
母「それまだ使うから置いといて」
私「!?英和辞典なんて絶対使わないでしょ」
母「使うの!これから英語の勉強するんだから!」
私「いやいや、絶対しないでしょ。笑」
母「いいから置いといて」
私「辞書が必要なら電子辞書買えばいいじゃん。これは捨てる」
母「なんで葉月が決めるの。それ買ったのはママでしょ」
私「………(たしかに)

 

私は自分が使っていたものは自分のものだと思っていたけれど、学生時代に使っていたものはそのほとんどが親に買ってもらったものである。だから親のものでもあるのだ。母に言われて初めて気がついた。

 

実家には私の卒園アルバムから卒業アルバムまで全部あるけれど、じつは私はそれらを処分しようと思っていた。もう見返すこともないし、嵩張って重いし、高校の卒業アルバムなんて個人写真撮影の日だってことを忘れて大寝坊し、ボッサボサの頭と顔で写っている。誰にも見せたくないし、自分も見たくない。笑

 

でも、これらも親に買ってもらったわけだから、私の一存では処分できないということだ。なんか納得がいかないのだけれど、そういうもんなのだろうか。

 

夫の母( ↓ )はちょっと極端だけれど、執着心のない母親を持つ夫が羨ましい。

asukaze827.hatenablog.com

 

思い出を捨てられないわけではないようである

たとえば、私が小さい頃に繰り返し読んでいた絵本。これを親が処分できないのはわかる。永田萌さんの絵が美しい春夏秋冬シリーズの絵本と、14匹のねずみさんシリーズの絵本は、親が少しずつ買い集めてくれて、どれも暗唱できるほど繰り返し読んだ、私にとっても親にとっても思い出深い本だ。

 

でも反抗期真っ盛りの頃に学校で使っていた英和辞典なんて、母にとって思い入れがあるとは到底思えない。参考書の類も、私は使っていた記憶があるが、自分で選んで買ってきたものなので母は中を見たこともないだろう。

 

しかし、いずれの場合もお金を出してくれたのは親だ。親が「とっといて」と言うならとっとくしかない。年を取ると物が捨てられなくなるとはいうけれど、母もそういう年代に入ってきたということなのだろうか。娘としてはショックを感じた出来事だった。

 

大量のビデオテープをどうするか

実家にあるものの中で私が心から処分したいもののひとつに、私の大量のビデオテープがある。バレエの発表会やコンクールのものだ。過去の自分の踊りなんて、たとえ入賞した時のものであっても観たくない。10代の頃はビデオを観返してその後のレッスンに役立てたりもしたけれど、この先の人生でこれらのビデオが役に立つ日は永遠に来ない。1日も早く葬り去るべきである。

 

でも母は時々思い出したように、「バレエのビデオ、DVDに焼いて」と言ってくる。そのための機械も(動くかどうかは不明だけれど)あるにはある。だけどそもそも面倒くさいし、大量にありすぎて気が遠くなる。それにもうビデオテープも伸びちゃってるかもしれない。いざ作業を始めてみてテープが伸びてることを母が知ったら、「だから早くやりなさいってあれほど言ったでしょ!」という、子どもの頃から何万回もされてきたお説教をくらうだけである。それは嫌だ。笑

 

私が実家のものにあんまり口出しすると、母にビデオのことを思い出すきっかけを与えてしまうかもしれない。それは大変面倒なので、とりあえず母のものも見て見ぬふりをするしかないようだ…