ふたり暮らし

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日本と外国、子どもの習い事に対する価値観の違い

ふたり暮らし。日本と外国、子どもの習い事に対する価値観の違い。
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プロを目指していなくても、毎日レッスンしている日本人

子どもの頃、私が通っていたバレエ教室に、夏になるとやってくるチュヒちゃんという韓国人の女の子がいた。お父さんが日本人で、夏休みを日本の祖父母宅で過ごす間だけレッスンしに来ていたのだ。

 

初めてチュヒちゃんに会ったのは私が5年生の時だった。

 

チュヒちゃんは技術的にも飛び抜けて上手でも下手でもなく、しかも夏休みだけの期間限定の生徒さんという、教室側からしてみたら「育てる対象」ではなく、お客様的立ち位置のはずなのに、それにしては先生方の指導が厳しく、居残りまでさせてビシバシやられていたため、私を含めた他の生徒たちは最初、戦々恐々としていた。

 

チュヒちゃんは日本語が話せなかったのだけれど、バレエ用語は全世界共通でフランス語を使うため、あまり支障はない。とはいえ、日本語の通じない(しかも期間限定の)子どもに対して、私たちとまったく同じかそれ以上のものを求める先生たちを見て、「この子には何か特別な事情があるのかもしれない」と感じていた。

 

私の家と、チュヒちゃんが滞在しているお祖父さんのお家がたまたま近所で、同い年だったこともあり、私たちは親しくなった。子ども同士なので、言葉が通じなくてもなんとなくの雰囲気やジェスチャーで通じ合えたし、チュヒちゃんのお母さんが日本語が話せたので、通訳をしてくれたりもした。

 

ある日、チュヒちゃんのお家でお茶をごちそうになっていた時、お母さんが言った。

 

「チュヒはね、韓国のお教室では1番上手だったの。先生には、才能があるから絶対にプロになったほうがいいって言われて、だから今までは夏休みはレッスンをお休みさせていたんだけど、もう11歳だし、プロになるなら休まないようにしようと思って、それでこっちのお教室に通うことにしたの」

 

え…。と思った。

 

先述した通り、チュヒちゃんは飛び抜けて上手でも下手でもない。同年代の子達の平均的なレベルだ。自惚れに聞こえるかもしれないけれど、当時は私のほうがずっと上手だった。そしてそんな私のレベル程度では、「プロになりたい」なんておいそれと口にできない感じだった。

 

お母さんは続けた。

 

「でもこっちのお教室に来て驚いた。チュヒよりずっと上手な子がいっぱいいるし、お母さんたちもみんなとても熱心。当然みんなプロを目指しているのかと思ったら、そうじゃないって言われてもっとびっくりした。プロを目指していないのに、あんなに毎日レッスンするなんて韓国じゃ考えられない」

 

誤解を招きそうなので先にことわっておくと、韓国のバレエのレベルが日本に比べて低いというわけではない。むしろその逆だ。韓国には、日本にはない国立のバレエ学校が存在し、国が全面的に支援しているバレエ団もある。ダンサーが舞台で踊るだけで食べていける環境がちゃんと整っているのだ。ヨーロッパなどに比べると少数だが、日本から韓国に留学する人もいる。
(それに比べて、日本にあるのは名ばかりの国立バレエ学校(団)だけで、海外から日本に留学してくる人なんていない。)

 

「葉月ちゃんはプロを目指しているの?」と訊かれ、私が「うーん。決めてない。わからない」と答えると、お母さんはため息混じりに、「日本人はすごいね」と言った。

 

「韓国でもバレエはとってもお金がかかる。チュヒは日本のおじいちゃんおばあちゃんが援助をしてくれるから、いい先生につくことができている。韓国ではものすごく恵まれているほう。韓国の親や祖父母たちは、プロになるわけでもない習い事なんかにこんな大金はかけられない。チュヒは来年芸術学校(舞踊学校)を受験して、そこからワガノワ(ロシアの名門校)に留学させるつもり」

 

きっとチュヒちゃんが韓国人でなくとも、中国人でもフランス人でもロシア人でも、お母さんの言うことはまったく同じだったと思う。

 

「プロになるつもりもないのに、大金をかけてもらって習い事をする」。これが日本の子どもたちなのだ。

 

桁違いに上達して帰ってきたチュヒちゃん

次の年の夏、再び日本に帰ってきたチュヒちゃんは、すごく上手になっていた。芸術学校を受験する子向けの予備校のような学校があり、地元のバレエ教室から移籍したとのことで、もうその時にはこっちの教室でもトップクラスの実力で、私なんかよりずっと上手だった。

 

そしてその次の年には、桁違いに上達して帰ってきた。芸術学校に無事合格し、本格的にプロを目指して毎日レッスンしているそうだ。私の教室にもプロを目指す子はいたのだけれど、チュヒちゃんはその子たちよりも圧倒的にレベルが高く、国をあげてダンサーを育成している韓国と、たとえプロを目指していても、国にとってはただの習い事に過ぎない日本との教育の差をまざまざと見せつけられた。

 

日本にはちゃんとしたバレエ学校がないため、プロを目指していても、昼間は普通の学校に通わなくてはならない。そのためレッスンできるのは夕方以降になり、プロのダンサーになるには必須条件となる、コンテンポラリー(現代舞踊)やバレエ解剖学を学ぶ時間がとても少なくなってしまう。

 

海外のバレエ学校では、クラシックバレエのレッスンはもちろんのこと、クラシック以外の舞踊クラスや、怪我を防ぐためのボディコントロールのクラス、バレエ史や解剖学、そしてダンサーになれなかった時に困らないように、一般的な数学や国語など最低限の授業もカリキュラムに組み込まれているため、日本人とは将来への道筋のつけ方がまったく違う。

 

世界から見た日本のジュニア(アマチュアの子どもたち)平均的なレベルはすごく高いと言われているが、それもそのはずだ。海外ではそもそもプロを目指さない子はコンクールにも出ないし、こんなにバレエにお金も時間もかけない。楽しく趣味で続ける子とプロになる子とでは、生きている環境がまったく違うのである。

 

日本にくると儲かる、と皮肉をいう外国人審査員

日本にはバレエのコンクールが乱立していて、近年もその数は増え続けている。少し大きなコンクールになると、外国人教師によるワークショップが附属し、子どもたちはみんなとても熱心に参加する。そのほとんどはプロを目指さずとも、「学べるうちに学びたい!」というストイックな精神を持った一般の子たちである。

 

そしてそういうコンクールでいい順位につけると、1週間〜10日程度の海外研修に行く権利が与えられたりするのだけれど、そんな短期間ではただの旅行とほとんど変わらないのに、「これもいい経験だから」と親は喜んでお金を払い、子どもを送り出す。

 

とある外国人の元ダンサーが、インタビューでこんな皮肉を言っていた。

 

「日本のコンクールで審査員をして、ちょっとレッスンをつけてあげるだけで、私たち外国人教師はとても儲かる。日本の子どもたちはとても真剣で努力家で、世界中でもっとも指導のしがいがあり、日本で教えられるこの機会を、私たち教師も毎年とても楽しみにしている。

 

でも、ひたむきに努力する子どもたちを見ていると、胸が痛むことがある。明らかにダンサーになれないような身体条件の子でも、これ以上は君のためにならないからバレエを諦めろと言ってあげられない。海外だったら見込みのない子どもには少しでも早いうちに引導を渡すのがその子のためだが、日本は違う。プロになれる見込みがないと自覚しているにも関わらず、どの子もとても真剣にレッスンを受けている。

 

しかも驚いたことに、多くの日本の教室環境はとても悪い。満足に身体を動かせない狭いフロアに、リフトしたらぶつかってしまうような低い天井。そんなビルの一室で、ひしめき合ってレッスンしているのだ。普段あんなに狭いところでレッスンしているのに、コンクールではたった数分のリハーサルをしただけで、広い舞台できちんと踊ることができる。日本人の順応性の高さと、わずかな時間でも無駄にしないその姿勢は、とてもダンサーに向いている。それだけに、日本のバレエ環境の悪さには残念な思いが拭えない。

 

日本の政府は、伝統芸能である日本舞踊や歌舞伎の学校に芸術支援金のすべてを注ぎ込んでいるのかい?」
(日本舞踊や歌舞伎の学校すらないということを知っている上での皮肉である。)

 

私はバレエの世界しか知らないけれど、おそらく音楽でもスポーツでも、子どもの習い事を取り巻く環境はいずれも似たようなものだろうなと思う。

 

親の偉大さ

昔は今よりも日本が裕福だったとはいえ、もし今と同じような経済情勢の中、チュヒちゃんが韓国でバレエを習っていたとしても、日本のお祖父さんお祖母さんはきっとチュヒちゃんのバレエに援助をしていただろう。

 

「自分たちの生活が苦しくても、子どものやりたいことを応援する」。これが日本の親や祖父母の基本的な考えであり、「日本人は恵まれている」と言われる所以である。

 

円安の今も、海外で挑戦する日本人は多い。たとえ奨学金を受けていたとしても、現地での生活費は自腹だ。それでも親は子どものためにお金を出してくれるし、祖父母も全力で協力してくれているお家が多い。日本人の子どもたちは、ある意味とても恵まれた環境でバレエを踊っている。

 

私が大人になって一番感じたことは、親の偉大さだ。苦しい時でも変わらずバレエを続けさせてくれたことに、心の底から感謝している。

 

私が教師をしていた時、子どもたちにはそれを伝えたかった。親に感謝しろと。でも、どういう言い方をしても、子どもたちにはなかなか伝わらなかった。みんないい子達だったので、素直に返事はするものの、腹の底からわかってくれた子はいなかった。
(子どもなんてそんなものか…)

 

自分もそうだったので偉そうなことは言えないのだけれど、夕方のクソ忙しい時間帯に週に何度も送り迎えをしてもらい、家に帰ればごはんができていて、お風呂がわいていて、食器洗いもお風呂掃除も洗濯もすべて親任せで、「宿題がある」を免罪符に部屋に直行できる子どもの生活。「学校とバレエで超忙しい!」なんてのたまいながらも、生活自体は自分のことだけをやっていればよかったのだ。

 

お月謝袋をポイっと置いとけば、次の日にはお金が入っていたし、新しいトウシューズが踊りにくいと言ってはすぐに履かなくなり、べつのシューズを買ってもらっていた。毎日のようにレッスンしていれば、レオタードやタイツの消耗も激しく、それらも買ってもらって当然と思っていた。

 

教師時代は、「うちの親すごいケチ」「あれも買ってくれないこれも買ってくれない」などと不満をもらす生徒に、「バレエを習わせてもらってるんだからケチなんかじゃない!欲しいものはお小遣い貯めて自分で買えばいいじゃん!」と叱ったことが何度かある。ちょっとは心に響いてくれていればいいのだけれど、まあたぶん、「先生こわ〜…」程度にしか思っていなかったんだろうな、と思う。

 

親の偉大さは親になってみないとわからない。私は親にはならなかったけれど、バレエ教師を辞めたことに悔いがあるとすれば、親の偉大さありがたさを、もっとしつこく真剣に子どもたちに話せばよかったということだ。