ふたり暮らし

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妄想が現実になったお話【仕事】

ふたり暮らし。妄想が現実になったお話【仕事】

なりきりごっこ

バレエ教師をしていた時、よく親御さんにこう言われた。

 

「うちの子、いつも家で葉月先生の真似ばっかりしてるんですよ〜」

 

私も子どもの頃はバレエの先生ごっこばかりしていた。ひとりっ子だったのでひとり二役とかで(笑)。バレエを習っていて、これをやったことない子はいないんじゃないかと思う。バレエの先生にしろ、幼稚園の先生にしろ、小さな子にとって身近な存在の先生は憧れの対象になりやすいものだ。

 

ところが、小さい頃からバレエの先生になった自分を妄想していた私は、中学生になっても高校生になっても同じことをしていた。さすがにごっこ遊びはしなかったけれど(してたら怖い。笑)、レッスン中に先生の言わんとしていることが伝わっていない子を見ては、「自分だったらどうやって教えるかな?」とか、下級生の未熟な動きを見ては、「あの子の軸足、直してあげたいな」とか、「発表会ではこういう振り付けをしたいな」とか、学校にいる時でもそんなことばっかり考えていた。

 

将来の道がまったく見えていなかったジュニア時代

私の通っていた教室では、中学生にもなるとバレエの道に進むことを心に決めた子ばかりになっていった。自分にはその才能がない、と自覚した子は小学校卒業と同時にバレエをやめるか、いわゆるエリート育成コースから外れて割り切って週に1回程度ゆるく続けるか、の2択だ。

 

私はどっちだったかというと、才能がない自覚があったのに、エリート育成コースにしがみついていた。

 

プロのダンサーを目指す子というのは、小学生の頃からその覚悟がすごい。自らの意思でプロ顔負けのストイックな生活をしていたりする。でも私は甘々な性格だったので、自らの意思ではなく、先生が怖いからとか、周りに置いていかれたくないからという消極的な理由でストイック風な生活を送っていた。

 

箸にも棒にもかからないような、まったく才能がないのであればまだ諦めがつくものの、私は中途半端な実力だったのである。

 

 

母は私が進路をはっきり決めないことをよく思っていなかったけれど、言ってもどうせ言うこときかないと思っていたのか、「とにかく勉強だけはしなさいね。成績下がったらお月謝払わないから」という脅し文句を言うだけにとどまっていた。

 

大きなコンクールに出て賞を取ると、海外のバレエ学校への留学権が与えられるので、プロを目指す子たちはみんなそれを目標にしていた。当然、私も建前上それを目標に掲げてはいた。

 

けれど、どうも自分の中でしっくりこなかった。プロの舞台に立つ自分を、上手くイメージできないのだ。プロになっていった人たちのインタビューを見ても、全然心惹かれず、「へぇ〜、大変そうな生活だなぁ…」としか思えなかった。

 

怪我がきっかけで出会った先生

高校を卒業し、バレエ団の研究生としてレッスンしていた頃、左足を疲労骨折してしまった。疲労骨折というのは、痛いには痛いけれどそこまで激しい痛みではなく、ちょっと無理すればなんとか踊れなくはない程度の怪我だ。しかしその原因が酷使しすぎなことであるため、動けるのに踊っちゃいけないというジレンマを抱えることになってしまった。

 

そんな時に、自宅近所の公民館のバレエサークルに顔を出したのが私のバレエ教師人生の始まりだった。

 

お医者さんから激しいレッスンを禁じられていたので、サークルのゆるいレッスンくらいならちょうどいいんじゃないかと思い、ふらっと見学に行ったのだ。

 

そこで講師をしていた方が、私の運命を変えてくださった方である。

 

飛び込みで見学に行った私に驚きつつも、私の事情を聞くと、「お月謝はいらないから身体を動かしに来ていいですよ。それで、もしよかったら小さい子のクラスを教えてくれないかしら」と言ってくださった。

 

教えることは最大の勉強になる、と聞いたことがあったので、指導料がいただけるとかそういうことは一切考えず、その場ですぐお引き受けしたのだけれど、あとになってからちゃんと指導料が支払われると知り、私も母も大いに喜んだ。

 

ひょんなことがきっかけで始まったバレエ教師人生。その先生は私が教師として独り立ちするまでそばで支えてくださり、発表会運営のノウハウや保護者との上手な付き合い方など、本当にたくさんのことを教えてくださった。

 

ビジョンが見えなくなった時、教師を辞めざるを得ない状況になった

自分の教室を持ってからは、毎日が必死だった。大好きだったバレエを嫌いになりかけたことすらあった。とくに2年に1回行う発表会は、本当に大変だった。大金がかかるので必ず文句を言う保護者がいたし、配役にも必ず不満が出て、毎回精神を大きく消耗していた。

 

それでもどうにかやってこれたのは、私の頭の中に未来への明確なビジョンがあったからだ。

 

「次の発表会はこの子でこの演目をやろう!あの子にはこの役をつけて、あの子にはちょっと冒険だけどあの役をやらせてみよう」など、発表会が終わった直後から、私の頭の中には次の発表会のビジョンがあり、その実現に向けて日々のレッスンを行っていた。

 

もちろん、予定通りにいかないことも多々あった。予想外に伸び悩んでしまう子や辞めてしまう子、反対に予想以上に伸びてきてどんどん積極的になってくる子もいたりして、最初の計画通りに配役できなくなったりもした。でもそれが面白かった。

 

15年間、順調にやってきていたつもりだったけれど、知らず知らずのうちに私の精神は削られていたのだと思う。ある時期から、将来のビジョンがまったく浮かばなくなってしまったのである。

 

15年というと、3歳から通い始めてくれた子が高校を卒業する年だ。初期の頃の生徒さんというのはどうしても思い入れが深い。保護者の方との信頼関係も厚く、私にとってはとても大切な存在だった。

 

13年目を迎えたあたりから、そういう初期の生徒さんたちがどんどん教室を辞めていってしまい、私は落ち込むことが多くなった。他にもまだまだ可愛い生徒さんたちはいるというのに、こんなのじゃ教師失格だとわかってはいるけれど、どうにもならなかった。

 

教室を始めた頃とは時代も変わり、小さい子のお母さんにフルタイムで働く方が増えてきたのも、大きな戸惑いだった。バレエはピアノと違い、自宅で練習できるものではない。上達したければレッスン回数を増やすしかないのだけれど、親御さんが多忙なことと不景気も相まって、週に何回も習い事をさせる余裕がないお家が増えてきたのである。

 

子どもたちが憧れるトウシューズも、既定のレッスン回数に満たない子には履かせることができない。そう伝えると、ほとんどの親御さんはバレエを辞めさせる選択をした。長い目で見れば、バレエなんかより塾に通わせたほうがいいと判断するのだろう。それが間違っているとは私も思わなかったが、寂しい時代になったなと感じていた。

 

ちょうどその頃、夫の仕事にも変化があった。私が地元を離れられない仕事をしていたため、夫はずっと遠方への転勤を断り続けてくれていたのだけれど、いよいよ年齢的にこれ以上断ると将来に響くということで、転勤を受け入れることにしたのだ。この先単身赴任になるかもしれない…!という事態になり、二人でこの先の生き方について話し合った。

 

これまでは夫が私の都合に合わせて私の仕事を支えてくれた。だからこれからは私が夫に合わせて夫を支えて行こう。

 

そう決めた時、モヤモヤしていた頭の中がぱぁ〜っと晴れて、知らない土地でゆったりのんびり過ごす自分のビジョンが見えてきたのである。

 

あの頃のビジョン通りの今

教室を辞めると決めてからは後任の先生を手配したり、生徒さんから希望があれば他の教室への移籍をサポートしたりと、忙しい日々を過ごした。

 

それまで以上に目の回る忙しさだったけれど、最後の発表会に向けての明確なビジョンと、その先の新しい人生のビジョンが見えていたため、寂しさを感じつつも、どこか吹っ切れたような、明るい気持ちで過ごすことができたように思う。

 

 

教師を辞めて丸5年が経ち、今はあの頃に妄想していた通りののんびりとした生活を送っている。

 

どこを歩く時も、いつ生徒さんや親御さんに見られるかわからないという窮屈だった生活から、どこを歩いていても誰にも見つかる心配がない生活。小学生や中学生の女の子の集団を見てもビクビクしなくていい。笑

 

この先の未来について、今のところ明確なビジョンは浮かんでいない。楽しく妄想できる未来のビジョンが浮かんだ時、きっとそれは次の人生に向けてのスタートになるのだろうなと思う。