ふたり暮らし

明日は明日の風が吹く

漫画と青春

ふたり暮らし。漫画と青春。

初めて読んだ漫画はちばてつや

私が人生で最初に読んだ漫画は、父の持っていたちばてつやの古い漫画だった。ちばてつやというと「明日のジョー」などの少年漫画のイメージがあるけれど、私が読んでいたのは少女漫画だった。「123と45ロク」「ユキの太陽」「みそっかす」「島っ子」という、どれも元気でお転婆な女の子が主人公の、笑いと涙と感動のハートフルストーリーだ。

どの作品も何十回読んだかわからない。ページの構成やセリフを暗記するほどくり返し読んだ。両親には「またそれ読んでる」と、何度呆れられたことか。大人になってからも父の部屋に行くたびに読み耽っている私を見ては、「パパが死んだら葉月にあげよう」と言われたりしている。
(父に言われなくてももちろんそのつもりだけれど。笑)

 

子どもの頃は漫画の登場人物になりきって1人寸劇を繰り広げたり、絵を模写したり、同じような漫画を描いたりして大いに影響を受けた。たぶん私の人格の一部はちばてつやの漫画でできている。

 

 

まる子口調の小学生は、超能力を信じ、タキシード仮面に恋をした。

小学1年生の時にちびまる子ちゃんのアニメが始まり、学校ではまる子や丸尾君のセリフが流行っていた。運動会ではピーヒャラダンスを踊り、「たら〜〜ん…」とか「ガーーーン!」などの効果音や、「◯◯であった。」というキートン山田のナレーション風なセリフが日常的に飛び交うようになった。普段のしゃべり方もどことなくまる子っぽい感じになり、父は面白がり母には嫌な顔をされていた。笑

 

その後なかよしでセーラームーンの連載が始まり、当然あっという間に夢中になった。私の本気の初恋はタキシード仮面だ。セーラー服に憧れ、プラスチックの宝石を幻の銀水晶に見立てて後生大事に持っていた。授業中の考えごとはもっぱら「自分の前世について」で、「学校に行く途中で黒猫に出会ったらどうしよう。うちには犬がいるし…」と真剣に悩んだりもしていた。笑

 

同時期に連載されていたミラクルガールズの影響でふたごにも強く憧れ、自分にもまだ開花されていない超能力があると信じていた。「ともみ」という名前の友達と一緒にミラクルガールズになりきり、授業中にテレパシーの練習をしたり、人気のない場所でテレポートの練習をしたりしていた。爆笑

 

セーラームーンとタキシード仮面のようなファンタジックな恋でなく、現実世界での恋に憧れたのもミラクルガールズの影響だった。クラスの女子たちの話題は、キンキの剛派・光一派、ミラクルガールズの野田君派・倉茂先輩派で毎日盛り上がっていた。

 

 

山岸凉子作品と出会う

どの競技にも言えることだと思うけれど、スポーツなどを漫画にした場合、そのスポーツをやる人にとって作者の画力は超重要だ。いくら話が面白くても、絵が現実とかけ離れていると作品に入り込めない。

 

そういった意味でバレエ漫画はとくに難しいように思う。人間の身体の仕組みに加えて、バレエの動きに相当詳しくないと正しい絵にならないからだ。話の内容はとても面白いのに、絵がおかしくて話に集中できなかった作品がいっぱいある。

 

私が個人的にバレエ漫画の頂点と呼んでいる作品に出会ったのは、中学生の時だった。それが「アラベスク(山岸凉子著)」だ。

 

とても古い漫画で、初期の絵柄はキャンディキャンディとかベルばらのような感じなのだけれど、バレエ的目線から見た画力はすごく高い。前半は王道の(非現実的な)シンデレラストーリー、後半はダンサーの女性としての心の成長に視点をあてた大人向けの物語である。
(この作品は、この後半があってこその名作だと思っている。)

 

「アラベスク」を読んで、山岸凉子のバレエ漫画は間違いない!と知った私は、その後「テレプシコーラ」という漫画も読んだ。こちらはドラマティックな「アラベスク」と違い、現代のリアルなバレエ少女たちの地道な努力や心の葛藤が現実的に描かれており、自分に重ね合わせて苦しくなってしまう作品だった。

 

バレエ漫画をきっかけに山岸凉子作品にハマった私は、その後「日出る処の天子」で完全に虜になった。

 

 

私のしあわせの原点となった4コマ漫画

実家ではずっと読売新聞をとっている。私は毎朝の4コマ漫画「コボちゃん」とともに育ってきた。実家を出てからも、実家に帰るたびに古新聞を引っ張り出してコボちゃんを読んでいた私のために、今では母が毎朝コボちゃんを切り抜き、父がそれをスクラップして送ってくれるようになった。

 

なんでもないありふれた日常に、日々の小さな幸せや面白い出来事を大切にして生きていくこと。私が「こう生きていきたい」と願う心の根底には、いつもコボちゃんがある。両親が送ってくれるスクラップブックは、これからも宝物であり続けると思う。