ふたり暮らし

明日は明日の風が吹く

久しぶりの帰省で見えたこと

ふたり暮らし。久しぶりの帰省で見えたこと。

ラクタと素敵なものが入り混じった部屋

先日、隣県にある実家に帰省した。いつもは夫も一緒に行くのだけれど、今回は急だったのでひとりで行った。両親に会うのは半年以上ぶりだ。私たち夫婦はお盆や年末年始などの大型連休には帰省しないので、自分でちゃんと帰省の予定を立てないと、気がついたら1年経ってしまっていたりする。今回も「今のうちに行っておかないと年末になっちゃう!」と慌てて帰省の予定を立てた。
(いつでも行ける距離だからこそ、という油断もあると思う。)

 

私の両親はふたりともとてもきれい好きだ。私が子どもの頃は、掃除と片づけに関して父からも母からも、毎日かなり口うるさく言われ続けていた。あまりにもうるさく言われ続けたせいか、実家を出て15年以上経つというのに、今でも生活のふとした場面で両親の小言が脳内で聞こえてくる。

 

 

ところが、ここ数年は私のほうが実家に行くたびに「少しは片づけたらいいのに」と思うようになってしまった。

 

 

相変わらずきれい好きなふたりなので、ホコリや汚れがたまっているということはないのだけれど、とにかく物が多い。行くたびに家具や飾り物が増えている。リビングは家具やわんこのお昼寝マット(あちこちにある)を避けながらじゃないと歩けないし、棚や家具の上など、平らな場所という場所すべてに隙間なくものが置かれている。

 

ふたりとも飾ることが好きなのだ。それはいい。問題はその数である。

 

父はDIYが得意で模様替えが趣味。実家に行くたびに家具の配置が変わっていたり、手造りの飾り棚が増えていたりする。つい最近も、玄関とリビングの壁面全体に飾り棚を増設したそうで、私が行った時にはもうすでに隙間なく物が飾られていた。

 

飾り物のひとつひとつはそれぞれとっても可愛らしいものたちだ。繊細なガラス細工のお人形だったり、お家や家具のミニチュアだったり。それらは昔、私のおままごとにもしょっちゅう借し出されていて、私にとっても思い出の品々である。

 

そのほかにも、私が高校時代に集めていたチョコエッグのおもちゃ、パンのシールを集めて手に入れた絵皿、父が趣味で作っていたバイクのプラモデル、仕事関係でもらった非売品のチョロQ、ディアゴスティーニで集めた車の模型、父が趣味で描いたイラスト、母が作った紙粘土の作品たち。

 

部屋に余白と統一感が無さ過ぎて、素敵な飾り物もすべて埋もれてしまっている。私が集めたチョコエッグのおもちゃなんてさっさと捨てればいいと思うのに、父は絶対に捨てない。シールを集めてもらった絵皿だって、ほかの飾り物がなければ素敵な絵皿だけれど、隙間なく小物や写真が飾られている空間にあると、どう見てもガラクタにしか見えない。

 

母が作った紙粘土作品のひとつを、私が自宅に飾っているが、わが家は物が少ないおかげでそれがとっても素敵に見える。母の紙粘土作品はどれも手が込んでいて、育児と仕事で多忙な生活のかたわら、時間をかけて制作していたことを私は子ども心にも覚えており、だからこそ、ひとつひとつの作品を大切に飾って愛でてあげたいと思う。

 

それは父の作ったプラモデルやイラストも同じで、私だったらそれらを大切に残して、そのほかは全部処分するか、数を厳選する。ガラクタと同じ空間に隙間なく並べるから、せっかくの素敵な作品もガラクタに見えてしまうのだ。

 

ふたり暮らしとは思えない食材と食器の量

実家の冷蔵庫の容量は、わが家の冷蔵庫よりはるかに大きい700リットルだ。70代夫婦のふたり暮らしなのに…!冷蔵庫も冷凍庫もいつでもギッシリ物が詰まっていて、それなのに私が実家に行くと、「何もないから」と言ってスーパーに買い物に行く。「買い物に行かなくても冷凍庫にあるもので何か作れそうだけどな…」といつも思うのだけれど、久しぶりに娘に手料理を振舞おうとウキウキしている母にそんなことは言えず、だまってスーパーについていく。

 

食器棚は幅2m高さ180㎝の大型タイプで、どの引き出しにもぎっしり食器が詰まっている。わが家の食器なんて見なくても思い出して数えられるくらいしかないのに、実家の食器は母もその数を把握できていないだろう。私たち夫婦がたまに泊まりに行くので、基本の食器類が4セットずつあるのはわかるけれど、それ以外にも用途不明な食器や出番のないグラス類が山のようにある。

 

父がぼやく。
「野菜室を開けるといつのかわからない溶けた野菜が出てくるんだよ…」
ひー!とは思うものの、私も断捨離前はそういうことがよくあったので、母のことは言えない。こういうことは本人が自覚して「変わりたい!」と思わなければだめなのだ。

 

母は母でこうぼやく。
「壊れて処分する予定だった家具を、パパがリメイクして部屋に持っていくのよ…」
物を大切にするのはいいことだけれど、捨てるはずの家具でもなんでもかんでもリメイクして自分の部屋に置いていたら、いつか家は身動き取れない状態になってしまう。でもこれもまた、本人が自覚して「なんとかしないと!」と思わなければだめである。

 

お仏壇やお墓の存在意義

実家には、昨年亡くなった父の姉の真新しいお仏壇がある。伯母には子どもがいなかったので、弟である父に自分の後を頼んだのだろうけれど、正直お仏壇なんてこの先どうする気なんだろう、と娘としては非常に心配である。父が生きている間にどうにかするつもりならいいけれど、後始末が私にまでまわってくるなら、元気な今のうちになんとかしてくれと切に思う。

 

こういう時、私はいつも夫の母の言葉を思い出す。


「お仏壇もお墓も法要も、亡くなった人のためと言いつつ、みんな自分たちのためにやるのよ。生きている人が、自分たちの心を納得させるためにやっているだけ。故人を思うだけなら、モノや場所がなくたって心の中で偲んであげたらそれでいいのよ」

 

義母の家には、義父のお仏壇はもちろんのこと、義父を思い偲ぶための場所やモノも一切ない。葬儀以外の法要の類も行っていない。でも、私は義父のことが好きだったので、日々の食卓で夫と義父の話題で懐かしむこともよくあるし、義母に会った時は義父の思い出話で笑い合うこともある。

 

大金をかけた立派なお墓やお仏壇がなくても、家族や友人たちが時々思い出して温かい気持ちになれる人であることが、本当にしあわせな故人といえるのかもしれない。