ふたり暮らし

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恵まれた人間関係

ふたり暮らし。恵まれた人間関係。

私のことを親友と言ってくれる友人

私には、相手との距離が近くなると息苦しくなって離れてしまうという悪い癖がある。このことは以前の記事でも書いた。↓

asukaze827.hatenablog.com

 

こんな私だけれど、私のことを「親友だ」と言ってくれる友人がいる。そう言われると素直に嬉しいし、その友人のことをこれからも大切にしようと思う反面、やっぱり私は息苦しく感じてしまう。

 

30年以上の付き合いで、私はその子に本音を話したことがない。だからその子が「親友」だと思っている私は、本当の私ではない。

 

その子と一緒にいる時、私はその子にとって耳障りのいいことしか言わないようにしている。相手の気持ちを考えて物を言うのは人付き合いの基本ではあるけれど、私は自分の意見があったとしても、「この子は今こう言ってほしいだろうな」と思うことばかり言ってしまう。

 

高校時代、毎日とても仲良くしていた子に、「本音が見えない」「八方美人」と言われてしまったのもそれが原因だ。

 

本音を言えば、私も友人に心の内を打ち明けてみたい。でも、自分の性格(性質)上、それができないことも嫌というほど思い知ってきたので、無い物ねだりをすることはやめた。

 

若い頃は、本音でつき合えるたくさんの友人に囲まれて、人生の様々な時間をともに過ごしている人が、「人間関係に恵まれている人」だと思っていたけれど、必ずしもそれだけが人間関係に恵まれていることの条件ではないと、今の私は思う。

 

親戚付き合いがほぼゼロの生活

夫は長男だけれど、結婚する前も結婚してからも、夫側の親戚との付き合いはほぼゼロだ。私がこれまでに夫側の親戚に会ったのは、義父の葬儀の時だけである。大型連休に夫の実家に帰省するというイベントも、私は一度も経験したことがない。そもそも夫の母がそういうのを好まない人だ。

 

自分では気づいていなかったけれど、これは相当恵まれているらしい。いろいろな人から言われた。

 

たしかに両親を見ていると、私が子どもの頃からマメに双方の親戚と交流していたし、今でもお付き合いはちゃんとしているようだ。とくに父は、きょうだいが多い上に末っ子なので、母は口うるさい小姑が何人もいて大変だっただろうなと思う。そして母側の親戚は地方の田舎の人たちなので、そっちはそっちであれこれと大変そうである。
(両親は私にそれらの親戚付き合いのサポートを求めてこない。求めたところで私が断ることがわかっているのだろう。)

 

私の現在の人付き合いは、だから非常に少ない。今の人間関係にわずらわしいところはまったくといっていいほど無く、気楽そのものだ。

 

 

恵まれた人間関係というものに、「ある」と「ない」は関係なかった

気心知れた仲間たちとの思い出や心のつながりが「ある」こと。
わずらわしい人間関係が「ない」こと。

 

恵まれた人間関係というものに、「ある」ことと「ない」ことは関係ないんだな、と最近思うようになった。私には気心知れた仲間たちとの思い出や心のつながりは無いけれど、その代わり、わずらわしい人間関係もない。

 

今でも、学生時代に親友と心のつながりを感じた思い出がたくさんある人のことを羨ましいなと思うことがある。大人になってからもそういう人付き合いができる人のことをまぶしい思いで見ることもある。

 

でも、そういう「ある」ことだけが恵まれているわけじゃない。よけいな人間関係が「ない」ことも同じくらい恵まれていることなんだと、わかるようになった。