ふたり暮らし

明日は明日の風が吹く

【パリの家族たち】女性ならきっと誰もが誰かに共感できる映画

ふたり暮らし。【パリの家族たち】女性ならきっと誰もが誰かに共感できる映画。

f:id:asukaze827:20240408122319j:image

何度も観てしまうフランス映画

アマプラのお気に入り映画、「パリの家族たち」。フランス映画は好みがはっきり分かれると思うけれど、私は結構好きだ。フランス映画の特徴として、1回観ただけではあまり理解できず、お気に入りになるかどうかは関係なく、どの作品もだいたい複数回観ることになる。

 

この映画も初日にサラッと続けて2回観て、翌日にじっくりもう1回観た。その後も4〜5回観たと思う。回数を重ねるほどに味わいを増す、スルメのような映画だ。

 

多種多様な母と子の関係性

この映画は女性向けだ。たぶん男性が観てもまったく共感できないだろう。この世でもっとも複雑で難しいと言われている母と娘の関係性が、様々な登場人物の視点から描かれている。監督はもちろん女性。

 

【主な登場人物】

ナタリー 
大学教授。三姉妹の三女。常識のない母親と小さな子どもを嫌う、マニッシュな女性。認知症になった母を疎ましく思いながらも、突き放し切れずにいる。独身。

 

イザベル(イザ)
ナタリーの姉、長女。小児科医。優しく穏やかで、子ども時代から折り合いの悪かった母親を甲斐甲斐しく世話することで、自身のインナーチャイルドを癒そうとする。既婚。子どもを切望し、養子を迎えようとしている。

 

ダフネ
ナタリーの姉、次女。反抗期の娘と幼稚園の息子を持つジャーナリスト。バツイチ。仕事が忙しく、子どもたちの世話はシッターのテレーズに任せきり。脚を怪我しており、ほぼすべてのシーンで松葉杖をついている。

 

アンヌ
生後3ヶ月の子を持つ女性大統領。妊娠は予定外だったが、母親としても妻としても国のトップとしても、すべてを完璧にこなそうと奮闘する。

 

テレーズ
アンヌの母親。6人の子どもを育て上げた大ベテラン。ダフネの子どもたちにも大きな愛を持って接している。

 

ブランシュ
ナタリーの幼なじみであり、親友。子育てをめぐって母親と対立して以来、母親のお葬式を妄想するのが習慣になり、花屋に葬式用のお花を下見に行く。幼稚園に通うひとり娘がいる。

 

アリアン
舞台女優。脳卒中で入院し、退院したばかり。息子のスタンが何かと干渉してくることにうんざりしている。

 

フレッド
ナタリーの教え子であり、恋人。

 

「母親像」は万国共通

日本より男女平等のイメージがあるフランスだが、世間が持つ「母親像」は日本と変わらない。

 

『女性というのは、子どもを産みおとした瞬間に立派な母親に変身し、誰よりも強く、優しく、献身的で、愛情深く、すべてを受け止め、守り、導いてくれる、母性に溢れた神聖な存在である(べきだ)

 

そんなわけあるかーー!!という現実のママたちの心の叫びが聞こえてきそうだけれど、こういう完璧な母親像を作ってしまっているのは、他ならぬママたち自身でもあるのだとこの映画は語っている。

 

映画の中に、完璧な母親はひとりも登場しない。理想の母親像にもっとも当てはまるであろうと思われたテレーズにも、かつては誰にも明かしていなかった心の葛藤があった。

 

母親というのは、同時に娘でもある。娘の立場から見ていた母親と、母親の立場になってから見えてきた母親の違い。たとえ母親にならなくとも、嫌でも目につく世間の母子たちと、自分自身の母親との記憶。

 

それぞれの立場から見えてくる母と子の関係性が、短いシーンの中で印象的に散りばめられており、人生のどの時点で観るかによって感じ方が大きく変わりそうな映画である。

 

男女の違いを皮肉に描いたシーン

この映画にはもちろん男性も出てくる。花屋の主人でゲイのジャックは、亡き母親に対していいイメージしか持っていないし、ナタリーの恋人フレッドは、学生の身分にも関わらず、無責任にナタリーとの子どもを欲しがっている。アリアンの息子スタンは、大事な話があると言っている恋人のココをないがしろにして、母親のことにかまけている。

 

男ってやつはどいつもこいつも…と言いたくなるリアルなシーンばかりである。
(唯一、アンヌ大統領の夫だけが、成熟した大人の男性に描かれている。監督自身の、働く女性の理想の夫像を投影したのだろう。)

 

とくに、ナタリーの恋人フレッドの行動には大いに呆れ、笑ってしまう。

 

子どもを作ろうと言って、ナタリーに「ジーン・ケリーの子どもしか欲しくない」と一蹴されたフレッド。俳優のジーン・ケリーは、ご存知の方も多いと思うが、タップダンスの名手であり、すでに亡くなっている。

 

つまり、ナタリーは「子どもを作る気はない」と言っているのだ。とくに遠回しな言い方とも思えないし、はっきり意思表示をしているセリフである。それなのに、フレッドは健気というべきかただの馬鹿というべきか、タップダンスを習い始めるのである。

 

「ちがう、そういうことじゃない!笑」と思わず画面につっこんでしまった。

 

でも現実にもこういう行き違いというのは往々にしてあるのだろう。男性目線で見たら、フレッドの行動は理解できることなのか非常に興味ある。

 

印象的だったセリフ

ブランシュの娘が通う幼稚園の保護者会で、「様々な家庭事情を考慮した結果、今年から母の日のプレゼントは制作しないことになった」と告げられる。驚き憤る母親たち。毎日こんなに子どものためにがんばっているのに、ささやかな子どもからの感謝の行事すら中止するなんて、それじゃあ報われない…!!

 

その中で「父の日も無しですよね?」という質問が飛び出し、先生が「もちろんです」と答えた時、ひとりの母親がこう叫ぶ。

 

「父の日なんてどうだっていいわよ!」

 

笑っちゃいけないが笑わずにはいられない。私は子どもがいないけれど、このセリフを言う母親の気持ちは理解できる。おそらく世間のお父さんたちはこう思うだろう。「毎日一生懸命働いて家族を養っているのは俺なのに、父の日なんてどうでもいいってどういうことだよ!?」と。

 

理性的に見ればお父さんたちの言うことはもっともなのだけれど、お母さんたちの思いを感情的に考えると、反論してくる男性陣を「まあまあ、いいからいいから」となだめたくなる。べつに理解してくれなくていいのだ。どうせ無理だから。

 

もうひとつはもっとシリアスなシーン。
ブランシュが「母親のお葬式を想像すると心がやすらぐ」と言うと、ナタリーはこう告白する。

 

「私は怖い。ママを愛していたと自覚するのが怖いの」

 

ナタリーたちの母親ジャクリーヌは、放任主義のくせに、ことあるごとに「(いい)才能は遺伝しないのね」と言い放っていたようだ。三姉妹の職業から察するに、娘たちの教育には熱心で、でもその評価は厳しかったのだろう。長女のイザに対する言動からは、子どもに対して愛情深い親ではなく、毒親気味だったことが伺える。

 

それでも、ナタリーにとってはこの世でただひとりのお母さんなのだ。母親を憎んでも憎みきれない娘としての悲痛な想いが、このセリフには詰まっている。

 

物語の最後

以下ネタバレ。

 

 

 

ジャクリーヌを施設に入れる日。ナタリーたち姉妹はジャクリーヌと施設内の素敵なレストラン(食堂)で母の日の食事会をしている。ジャクリーヌはここが施設だということに気づいていない。

 

事前に計画していた通り、ひとり、またひとりと姉妹は席を立つ。最後に残った長女のイザは、「この子をこれから迎えに行く」と養子に迎える子の写真を見せた。いつものジャクリーヌならイザの選択を口汚く罵るところだけれど、この日はイザの手を握り、「よかったわね」と微笑んだ。

 

イザはゆっくりと席を立ち、ナタリーたちのもとへ向かった。

 

ひとりになったジャクリーヌのもとへ、ひとりの男性(施設の人)がやってきて、「建物の中をご案内しましょう」と紳士的に腕を差し出す。ジャクリーヌはその腕に手をからめ、どこか嬉しそうな表情で歩き出す。

 

しかし歩みを進めるにつれ、ジャクリーヌの顔には不安の色が浮かんできて、それでも促されるまま食堂を後にする。そんな母親の様子を遠くから見つめる姉妹たち。三者三様の表情をしているが、ナタリーの辛そうな表情には胸がしめつけられる思いがした。

 

ナタリーたちが三姉妹ではなく、ひとりでも男兄弟がいたらこうはならなかっただろう。「そんなやり方、母さんが可哀想だろ!施設になんて入れずに、これからもみんなで協力して面倒を見ていこう!」と調子のいいことを言い、いざとなると自分は仕事を理由に姉妹たちに介護を丸投げする様子が目に浮かぶ。

 

こういう時、姉妹がいるっていいなと思った。そして母に会いたくなった。