ふたり暮らし。苦手なものは避けて生きる。
得意なものは楽しい記憶に。苦手なものは…?
私はバレエをやっていたから、苦手なことを努力して克服してきた経験はたくさんある。でもそれは大前提として、私がバレエを好きだったからできたことだ。子どもの頃はピアノも習っていたけれど、そっちはあまり好きになれなかったため、練習もサボってばかりだった。今でもピアノに対しては苦手意識がある。
(聴くのは好き。)
小さい頃から読書が好きだった私は、国語が得意だった。中学以降では古文や漢文も得意で、古文や漢文の授業で出てきた時代にまつわる部分のみ、歴史も得意だった。国語が好きだったから、国語の授業が楽しく、先生の話(教科書には載っていない余談など)もよく覚えていたのだと思う。
逆に算数(数学)はとっても苦手だった。テスト前は公式を丸暗記。だからその単元が終わって公式を忘れてしまうと、同じ問題はもう解けない。範囲の広い実力テストになると、それはもうひどい有様だった。
(高校の数学なんて思い出したくもない。)
勉強はずっと母に教えてもらっていたのだけれど、もともと数学が得意な母は、私がなぜ苦手なのかがわからないようだった。「どういう導き方をしても答えはひとつ。こんなにわかりやすい教科もないじゃないの」と、よく言っていた。
もともとが理系の頭脳を持っている人にとってはそうかもしれないけれど、根っからの文系脳の私は、いわゆる数学的思考ができないのだ。だから、公式丸暗記なんていう、あとあと必ず手詰まりになる勉強法を取るしかなかった。
丸暗記する勉強なんて楽しいわけがない。数学は今でも苦手だし、数学にまつわる思い出で楽しかったことはゼロだ。
苦手なものを避けるのは悪いことではない
自分の人生を振り返ってみると、子どもの頃は苦手なことでも結構がんばっていたなぁと思う。それは、子どもの世界に「苦手なこと、嫌いなことでもがんばろう!」という風潮があったから。子ども時代は選択権がないため、仕方なくやっていただけなのだ。
でも、子どもたちにそういうふうに言う大人(学校の先生や親)たちは…?苦手なことを努力で克服した経験ばかりじゃないのでは?と思う。
私は大人になる時、「これからは自由だ!」と嬉しかった。
何をするにも監視役がいて、集団行動に縛られていた子ども時代。誰かの指示に従い、集団で行動するのはもうこりごり!と思っていた私は、いわゆる普通の会社員になることを避けた。分刻みのスケジュールに追われる子ども時代を追体験したくなかったので、子どもを産み育てることも避けた。
先日、パート先で「次はこの仕事を覚えたら時給が上がるけど、どうする?」と訊かれた。その仕事は私が苦手(不得意)な類の仕事だ。微々たる時給のためにストレスを抱えたくないので、「今のままでいいです。(にっこり♡)」と答えた。
苦手なことをがんばってできるようになったら、苦手なことを努力して克服したという、いい経験にはなるのかなと思う。それがバイトでもなんでも、自分に向いていないことであっても、努力してできるようにしてきた人はたくさんいるのだろう。
私は「あ、これは向いていないな」と思ったらすぐに手をひくタイプだ。「せっかくここまで来たんだから…」とかも一切考えない。無理、と思ったら道の途中でも迷わず離脱する。良く言えば諦めがいい、悪く言えば根性無しだ。
でもそれでいいと思っている。私は努力して登った山の頂きから雄大な景色を見るよりも、山の麓で寝っ転がってぼんやり空を眺めているほうが性に合っているのだ。これは本当に人それぞれだと思う。
嫌だな、苦手だな、と思ったことはどうにかして避けて生きていく。
批判されるかもしれないけれど(誰に?)、私はこれからもこの生き方を貫いていく。子どもの頃は決して許されなかったこの生き方ができるなんて、やっぱり大人は最高だと改めて思う。