ふたり暮らし

明日は明日の風が吹く

住む街がホームになる時

ふたり暮らし。住む街がホームになる時。

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地元があるありがたさ

子どもの頃は全国をまわる転勤族だったという知り合いが、「地元がないっていうのがコンプレックス。自分にとってホームといえる街がない。どこに住んでいてもアウェー感があった。家庭を持った今でもその感覚がある」と言っていた。

 

それを聞いた時、私が今の転勤生活を楽しめているのは、子ども時代を過ごした地元という「ホーム」があるからなのだと思った。圧倒的な懐かしさで自分を迎えてくれるホーム。昔は地元を出たくてしかたなかったし、親から遠く離れたところで暮らしたいといつも思っていたが、いつでも帰れる場所があるからこそ、地元から離れたところで人生を楽しむことができているのかもしれない。

 

地元は観光地なので、とくに大型連休中には帰省しないようにしている。世間が帰省ラッシュの時期は「ああもうそんな時期かぁ。連休が終わって空いたら帰ろうかな」とぼんやり考え、帰省ラッシュの時期が終わると、帰省というイベント自体を忘れてしまい、「あれっ?最後に実家に帰ったのっていつだっけ??」となりがちだ。

 

私の両親はそれが不満なようで、「葉月と会えないから◯◯の元気がなくなっちゃった」と、実家のわんこをエサにして私を頻繁に帰らせようとしてくる。わんこにはもちろん会いたいし、両親にも会いたいが、それを時には鬱陶しく感じてしまうこともある。それでも、思い立った時にふらっと帰れる実家があるというのはありがたいことなのだろう。

 

地元のある煩わしさ

私の地元は、たぶん日本でも有数の地元愛の強い地域で、一度も地元から出ないで家庭を持っている人も珍しくない。そのため、かつての同級生たちの近況を知りたくなくても母親経由で知ることになってしまう。

 

「◯◯ちゃんのとこのお子さんは◯◯小(私の出身校)に通ってるんだって」
「◯◯くんはお子さんが◯◯(難関私立中学)を受験するらしいわよ」
「◯◯ちゃんは下のお子さんが生まれて、ご両親もお孫さんのお世話でもう大変みたい」

噂話大好きな母は、私が帰省するたびにこんな話ばかり聞かせてくる。ということは、これらと同じだけ私の噂話もされているということだ。あまりいい気はしない。

 

私も地元は大好きだ。楽しかった子ども時代を思い出し、同級生たちに会いたいなという気持ちもある。でもそれは「たまに帰る・会う」からいいのであって、ずーっと同じ場所・同じ人間関係で暮らしていくのは、私にはどうも息苦しい。生活そのものを定期的にリセットしたくなってしまうのだ。

 

とはいえ、私が今の生活でリセットすることができるのは、「子ども時代を過ごした地元」という消えないセーブデータがあるからだということもわかっている。これがなかったら、とっくにこの転勤生活に嫌気がさしていたかもしれない。

 

住む街がホームになる時

引越しをくり返していると、暗記している住所がどんどん増えていく。昔の住所なんて普段は忘れているのに、住所を書いたり入力したりする時にふっと脳裏に浮かぶ。とくに今の住所は昔住んでいた時と郵便番号が同じなので、昔の住所が勝手にスラスラ出てきて我ながら驚いてしまう。記憶力は決していいほうではないのに、こんなことで貴重な記憶力を消費しないでほしい。笑

 

引越してしばらくは、家のどこを見てもよそよそしい感じがある。家の中だけじゃない。最寄駅に近づく車窓を見ても、車で高速を降りた時の景色を見ても、「帰ってきた」という感情が湧かない。

 

でも、生まれ育った場所だけが自分のホームではないと私は思う。住めば都という言葉があるように、どこに引越したとしても、自分の都にしてしまえばいいのだ。

 

だから私は引越しをするたびに、「ここが『私の』新しい街だ」と意識して過ごすようにしている。街も人付き合いと同じで、自分から馴染もうとしなければいつまでたっても私はよそ者のまま。いっときでも住んだことのある街は、私にとってはどれもプチふるさとなんだと思って、その土地の生活に水が混ざり合うようにして生きていきたい。

 

住む街がホームになる時。それは外から帰って来た時に、「ああ帰ってきたな」と思えるようになった時、景色や自分ちの外観を見てホッとできるようになった時だ。よその街がホームになった時が、その街での暮らしをほんとうに楽しめるようになった時だと思う。

 

早くこの街が私のホームになるように、もっとここでの生活を満喫したい。