ふたり暮らし

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上手くいくのは「自分」の実力じゃない

ふたり暮らし。上手くいくのは「自分」の実力じゃない。

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スピリチュアリストもただの人間

連日スピ系の記事が続く。こういうのは嫌いな人も多そうだけれど、ひとつ書くといろいろと思い出してしまうため、今日もおつきあいくださると嬉しい。

 

スピ系界隈では、ハイヤーセルフがどうのこうのという話をよく耳にする。これは、前回の記事で言うところの「ゲームをプレイしている本体の自分」のことである。

 

ハイヤーセルフの力を借りられれば、すべての物事は上手くいく。自分が願った通りの人生を歩むことができる。いわゆる引き寄せの法則というやつだ。引き寄せの法則については、たくさんの本が出ているし、信じて実践している人も多いと思うが、誰にでも使える魔法ではないということもまた、多くの人が身をもって実感していることだろう。

 

引き寄せの法則について、多くのスピリチュアリストたちもいろいろな表現を使って教えてくれている。その中でまったく同じことを言っている人はいない。人それぞれ、捉え方や考え方がちょっとずつ違い、引き寄せの法則を自由自在に操っているような人はおそらく一人もいないだろう。スピリチュアリストもしょせんは人間であり、全知全能の神ではないのである。

 

私はだれか特定の人の言うことを信じているというよりは、自分自身で体験したことを「スピ的に解釈するとこういうことなんだろうな」と考えることが好きで、引き寄せの法則ももちろん信じている。

 

過去にもいくつかの「引き寄せ」を成功させた出来事を記事にしてきたが、今日もそんな出来事のひとつを書いていく。

 

記憶が途切れている発表会

バレエ教師として独り立ちして初めての発表会。助教師という立場から、すべての運営を自分で行わなければならない責任者という立場になり、充実していると思う暇もないくらいに忙しい日々を送っていた。

 

バレエは舞台芸術、つまり演劇の一種なので、幕が上がってから下りるまで、舞台上のすべてに決められた動きがある。音楽に合わせてすべての箇所に振り付けをしなくてはならず、「1曲仕上がったからOK」というようなわかりやすい区切りをつけられないところが非常に難しい。

 

初めての発表会の演目を何にしようか、とても悩んだ。白鳥の湖も眠れる森の美女もくるみ割り人形も、有名どころの作品は初めての演目としてはハードルが高い。最初は小作品だけのお披露目会的なもので場を濁すことも考えたけれど、バレエなんて興味ないけど付き合いで観に来てくださっているような方にも、少しでも楽しんでもらいたいと思い、「幕物」と呼ばれるストーリー性のある舞台にしたいと考えるようになっていた。

 

最終的に選んだ作品は、バレエ作品として存在しないわけではないけれど、あまりメジャーではなく、バレエをやっている人からは、「よくこれをやろうと思いついたね!」と言われるような作品だった。初めて大きな舞台に立つ子も可愛らしく見え、バレエをまったく知らない観客にもストーリーがわかりやすく、終わったあとはたくさんの人から「すごく楽しかった!」「バレエっていうより絵本を観ているみたいで子どもたちも喜んでいた」と言っていただくことができた。

 

そんなナイスチョイスだった初めての発表会。じつは私は、どうやってその作品を選んだのか、私自身まったく覚えていないのである。

 

その作品を、私は踊ったこともなければ観に行ったこともない。バレエ雑誌でその演目を目にしたことがある程度だ。曲も聴いたことがなかったし、振り付けもさっぱりわからない。なんでこれを思いついたのか、本当に謎なのだ。なぜかある日突然、「これにしよう!」と思いついたのである。

 

主役を踊る子はすでに決まっていたのだけれど、その子のイメージにもぴったりハマる作品だったし、準主役やソリストの役にもおあつらえ向けにぴったりハマる子たちがいた。「え、この作品て、もしかしてうちの子たちのためにあるんじゃない?」と思ってしまうくらい、配役にもまったく悩む必要がない作品だった。

 

自分が観たことも踊ったこともないのだから、振り付けを考えるのは超大変だった。海外のバレエ団のDVDを観てみても、振りが難しすぎてまったく参考にならなかったし、プロの舞台と子どもの発表会とでは、舞台の設備的にもできることに差がありすぎるため、オリジナルで一からすべてを創り上げなくてはならず、心が折れそうになることが何回もあった。

 

家にいる時間のほぼすべてを振り付けに費やした。振り付けだけじゃない。発表会を開催するということは、裏方仕事もエベレスト級に山積する。

 

監督や照明さんや音響さんに提出する資料をそれぞれ作ったり、保護者の方にむけての配布物を作ったり、まだ舞台に不慣れな子ども達に舞台のしきたりを教えたり、音楽を編集したり、衣装のデザインを考えたり。空いた時間には打ち合わせからの打ち合わせ、そしてまた打ち合わせ…。それらに加えて発表会のレッスン以外の通常レッスン内容も、いつも通りに考えなくてはいけない。

 

我ながら、よくひとりでできたもんだと思う(2回目以降の発表会にはアシスタントの先生がいた)。実際、発表会を観に来てくれたバレエ仲間たちからは、「あれをひとりでやったの!?」と口々に驚かれた。

 

でも、記憶がないのだ。大変だったという記憶自体はあるものの、気が付いたら難しい部分の振付ができあがっていたり、メジャーな作品じゃないだけに難航していた曲探しも、「これとこれをこう繋げたらいいかも!」というアイディアが降って湧いてきて、すてきな組曲に仕上がった。

慣れてきても、発表会を行うのは毎回とても大変だ。その後、何回も発表会を開催してきたが、そのどれもがちゃんと記憶がある。細部にわたるまで自分で考えて創り上げてきたという事実を、ちゃんと頭が覚えている。

 

でも、最初のその発表会だけ、記憶が途切れているのである。「気がついたらできていた」、それが正直な感想だ。これはもう、神様が手を貸してくださったとしか思えない。

 

上手くいくのは「自分」の実力じゃない

さくらももこさんのエッセイで、ドラマ「北の国から」の脚本家、倉本聰さんと対談したというエピソードがある。

 

その対談の中で、倉本さんはご自分の作品を、「自分の力で書いているんじゃない、神様が助けてくださっているんだ、と感じるようになった」とお話しされていた。それを聞いたさくらさんは、「私も25歳くらいの時に、自分で書いているんじゃないって気づいたんです」と答えている。

 

25歳の頃のさくらさんは、毎週アニメの脚本を書いて、連載漫画を描いて、さらにはエッセイやその他いろいろな仕事を抱えて大忙しで、毎日ものすごい速さで仕事をこなさなくてはならなかった。そんなある日、ふと、「こんなにたくさんの仕事を、自分ひとりの力でできるわけないよなぁ」と思ったのだそう。そして自分の書いた原稿をよーく見てみると、自分の字ではないものがあることに気づいたという。

 

それ以来、さくらさんは、「自分ひとりの力じゃない、何人かの大きな力が私を助けてくれているんだ。それなら、この大きな力の媒体になれるように、私はいつも元気でがんばろう!」と思うようになったとのこと。

 

育児の記憶を失くした友人

友達に、双子の男の子と、その二つ上に男の子という、3兄弟を育てている子がいる。今では3人とも大きくなって、「食費がすごい~笑」と愚痴りつつも楽しそうに言っているけれど、子どもたちが小さい頃は、親に心配されるくらいものすごく病んでいたと本人は言っている。

 

友達は言う。

 

「『男の子3人、大変だったでしょ!?うちは一人でいっぱいいっぱいだったのに、一体どうやってたの?』ってよく訊かれるんだけどさぁ、大変過ぎて覚えてないんだよね。自分がいつごはん食べて、いつトイレ行って、いつ寝てたのか、全っ然覚えてないの。日々大変過ぎて記憶が追いつかなかったんだと思う。笑」

 

きっとこの友達にも、神様やハイヤーセルフの助けがあったのだろう。本人ももちろんがんばっていたけれど、神様の分け御霊である私たち人間を手助けすべく、大きな力が働くことがあるのかもしれない。

 

「そんなもったいぶらずに、できるならいつも手伝ってよー!」と思わないでもないが、私たちアバターである人間が、この世で様々な体験を通して、幸せ・悲しみ・愉悦・苦悩など多くの感情を味わうことが、本当の「自分」の願いなのだ。だからそう簡単には手を貸してくれないのだろう。笑

 

でも、ほんとうに必要な時は手を貸してくれる。ちゃんと導いてくれる。スピリチュアリストの中には、「人間が本来のシナリオと違う方向に向かってしまった時、『そっちの道に行くと余計な苦労するんだけどなぁ…でもやりたいなら仕方ない。じゃあ手を貸してやるか』的な感じでハイヤーセルフが手を貸してくれることもありますよー」とも言っている。

 

なにがほんとうのことなのか、それは私たちが死ぬまでわからない。笑

 

でも、自分以外の大きな力が見守ってくれていると思うと、勇気が湧いてくるし、さくらももこさんのおっしゃるように、その大きな力の媒体として恥じない自分でいたいと強く思う。