ふたり暮らし。すべては最初から決まっている。
この世は壮大なRPG
「この世は、あの世で自分がプレイしている壮大なRPGに過ぎない」というのをどこかしらで見聞きしたことのある人は多いと思う。私はこの言葉を初めて聞いた時、
「あはは、何それ!あの世の自分て何よ?この私は本体じゃなくて、操られてるってこと?これ言い出した人、マトリックスに影響されすぎじゃない?(笑)……でも、もし、もしほんとにそうなら…ちょっと気が楽になるな…」
と思った。
この考えが映画マトリックスに影響されたのではなく、マトリックスのほうがこの考えをもとに制作されたのだということは、後で知った。
RPGには大まかなストーリーがある。多くのゲームでは、最初に男女と種族を選んでアバターを作成し、職業とそれに付随するストーリーを選ぶ。途中、いかにも紆余曲折あるように見える演出が入るものの、ラストはソフトを開発した時から決まっていて、プレイヤーはその決められた未来に向かって、与えられたタスクをひたすらこなしていく。そして最初に決めたアバターは基本的に変更できず、違う人生をやり直したければすべてを捨ててリセットするしかない。
ゲームの中で、自分のアバターはじつにいろんな目に合い、様々な選択を行う。ひとつひとつのタスクをこなすためには地道な努力もしなければならない。そして、その努力の有無に関係なく、シナリオはすでに決まっている。ゲームによっては複数のエンディングがあったりもするが、それも開発者側が用意した決められたシナリオに過ぎない。
このアバターが「現実世界の自分」なんですよーと突然言われたらどう感じるだろうか。多くの人は最初、反発を覚えるのではないだろうか?
実際に私もそうだった。「どう転ぼうとも、人生のシナリオは最初から決まっているんですよ」なんて言われたら、「じゃあ努力なんてする意味ないじゃん」と思ってしまう。
以前も書いたが、私にバレエの才能はなかった。そして特別努力家でもなかった。たまたま入ったお教室がプロを輩出する厳しいところで、先生が超怖く、周りはストイックに自分を律して努力する子ばかりだったため、「怒られたくなくて」「遅れを取りたくなくて」仕方なく努力しているような子どもだった。今から思えば全然主体的に生きていなかった。
(それは今も同じだ。)
それでも私はバレエの先生になった。私よりもずっと才能のあった子がバレエをやめて行くのを山ほど見てきたのに、こんな私が一丁前に教室を構えて大勢の生徒さんたちを指導しているなんて、運命というのは不思議なものだな、と感じていた。
まさに、その「運命」というものこそが、あの世で自分が描いてきたシナリオだということを、今の私はなんとなく理解できるというか、信じている。
まわり道もシナリオ通り
さくらももこさんのエッセイを読んでいると、彼女には漫画を描く才能自体はそれほどなかったのだということがわかる。ただ絵を描くことが、何かを創作することが、とても好きだっただけ。それ以外のことはすべて不得意だったと書かれている。
こんな言い方をするのは大変失礼だが、ものすごく絵の上手な漫画家さんも大勢いる中で、ちびまる子ちゃんの、あのまるで子どもの落書きのような絵で一世を風靡するのは、とてもすごいことではないだろうか?
きっとさくらさんのかつての友人知人たちの中にはこう思った人がいたはずだ。「え!?さくらももこが漫画家になった!?あんな実力で!?私のほうがずっと上手かったのに!」と。
漫画というものは通常、読者を引き込む話を考え、読者に愛されるキャラクターを創りあげなくてはいけない。でもさくらももこさん最大のヒット作は、ご自身の子ども時代をありのままに描いた「ちびまる子ちゃん」である。皮肉屋で、天邪鬼で、子どものくせに斜に構えた態度で大人を見下す、およそ愛されるキャラクターとは言い難いあのまる子を、お茶の間(古っ。笑)の私たちは好きになった。
さくらさんはたぶん、「漫画家として有名になったあとでエッセイストになる」というシナリオを書き、この世に産まれてきたのだと思う。
高3の時に、「自分には才能がない」と漫画家になることを諦めたさくらさんは、周囲の勧め通り、進学することを決めた。その短大への推薦入学のために書いた作文が、「エッセイ風のこの文体は、とても高校生の書いたものとは思えない。清少納言が現代に来て書いたようだ」と褒め称えられたことで、さくらさんは、世の中に「エッセイスト」という職業があることを初めて知り、いつかエッセイを書きたいと思ったそうだ。
さくらさんのエッセイを読んだことのある方には頷いてもらえると思うが、彼女のエッセイは超絶面白い。とくに子ども時代〜思春期を描いたシリーズはちびまる子ちゃんのこぼれ話的なもので、漫画やアニメよりも笑えて、そして泣ける。エッセイを読んだあと、私は「ちびまる子ちゃん」をそれまでよりももっと好きになった。
エッセイストとしての才能を開花させるために、さくらももこさんは漫画家になったのかもしれない。さくらさんの早すぎる死はものすごくショックだったが、それが遺された人たちやファンの人たちにとって意味のある学びにもなったかもしれないし、まる子はこの先もずっと、老若男女に愛され続けていくのだろうなと思う。
誤解を恐れずに言うと、自分の死期すらも、さくらももこさんが自分で決めてきたシナリオに過ぎないのだと考えると、「すべてはなるべくしてなる。だからなにも怖がらなくていい」という風にも思うことができる。 若くして亡くなる方のスピリチュアルな特徴は、「明確な目的を持ち、その目的を遂行するために努力し、晴れてそれを達成した人」とも言われている。
(不快な思いをした方がいたら申し訳ありません。)
自他共に認める野球一筋人間の大谷翔平選手でも、野球が彼の一番の才能だとは、今の時点ではまだ言い切れない。もしかしたらこの先、野球を土台にしてもっとべつのものすごい才能を野球以上に開花させる日が来るのかもしれない。
(あれ以上の才能と言われると、ちょっともう想像不可能だが。笑)
人生は、まわり道もすべてシナリオ通り。
「すべてはこれでよかったんです。無駄なことなんてなにひとつなかったんです。まわり道のように感じていたあれもこれもそれも、すべては必要なことだったんです。」
これは私の大好きなスピリチュアリストの方の言葉だが、こういう言葉が嫌いな人もいるだろう。私も昔、人生を自分で舵取りしようと考えていた頃は嫌いだった。
でもそのスピリチュアリストの方は、そのあとこう続けている。
「そしてほんとうは、あなたはあなたに必要なものを、最初からすべて持っているんですよ。」
今の私は、自分の人生を自分で舵取りしようとは思っていない。最後はすべて上手くいくと最初から決まっているのだから、流れに身を任せ、その時々でやろうと思ったことをやればいいし、やろうと思えないことは無理してやらなければいい。そういうスタンスで生きている。
すべてはつながっていて、無駄なことはなにひとつないとはいえ、やろう!と迷わずに思ったこと以外は、やらない選択をすることも大事だと思っている。人生は有限だし、シンプルに生きることが今の私のモットーでもあるから。
真面目な人から見ればいいかげんに生きているように見えるかもしれないが、いいかげんは「良い加減」。だから悪い言葉じゃないんだよと斉藤ひとりさんもおっしゃっている。私はこれからも、今のスタンスで生きていこうと思う。