ふたり暮らし。子どもと文学。
ピンク色の服を着たアン
赤毛のアンの新しいアニメの評判が悪いらしい。「あんなのアンじゃない!」という意見が具体的な理由とともに大勢の人に挙げられていて、どれどれ?と思ってそのアニメの絵を見てみた。
うん。たしかにあれはアンじゃない。憤るみなさんの気持ちが非常によくわかる。原作ファンにとってはどうにも受け入れがたいビジュアルだ。このアニメ制作陣は、誰も原作をちゃんと読んだことがないのだろうか。
私が赤毛のアンを初めて読んだのはいくつの時だっただろう。今は亡き伯母が、わが家に遊びに来るたびに何冊も本を持ってきてくれていて、赤毛のアンシリーズもそのうちのひとつだった。村岡花子さん訳の古いもので、読めない漢字や知らない言葉を調べながら読み進めた記憶がある。素晴らしい翻訳によって脳内に広がるアヴォンリーの美しい風景に、妄想癖のあった私は虜になった。
伯母がくれた本の大部分は、何年も前に母が公民館の図書室に持って行き手放してしまったのだが、赤毛のアンシリーズの初期の3冊は今も私の手元に置いてある。しばらく読んでいなかったが、このたび久しぶりに読み返してみた。大人になった今でも、脳内に広がる風景はあの頃とおんなじだ。もはや懐かしいといってもいいアヴォンリーの風景の中に私はいる。
有名文学をアニメで知るのもいいが、やはり最初に原作に触れておくというのは重要なことなのかもしれない。今の新しいアニメを観て育った人と、原作を読んで育った人とでは、アンの人物像に対する印象はまったく違うものになるだろう。もちろんアニメのアンも魅力的に描かれているのだとは思うが、アンが駅でマシュウを待つその姿、着ている服、持っている鞄、ダイアナの瞳の色。すべてにおいて原作へのリスペクトがないなぁと感じてしまう。
もしかしてこの新しいアニメは、赤毛のアンをオマージュしただけのべつの作品なのかもしれない。
父親の心情を知る
子ども時代に読んだ本の中でもっとも心を揺さぶられたのが「ああ無情」である。最初に読んだのは児童文学全集のものだったのだが、ふりがな付きのその本を、私は昨年までずっと大切に持っていた。何度もくり返し読み過ぎて、表紙はボロボロ、ページも抜け落ちそうな箇所があり、しかも大人になってから原作のレ・ミゼラブルも読んだので、もうその児童文学を読み返すことはないとわかっていたのに、なかなか手放せずにいた。
年老いたジャンが、思い出のお人形を抱きしめながら小さかった頃のコゼットを思って咽び泣く場面では、いつ読んでも涙が溢れた。まだ子どもだった私に、父親の心情をリアルに教えてくれたのがこの本だった。
(あ、やばい。これを書いてるだけで鼻水が…)
後に映画も観た。リーアム・ニーソンとクレア・ディーンズ主演のものだ。本から入った作品あるあるだが、やはり脳内で作られた映像にリアルの映像は勝てない。でも子どもの頃に想像するしかできなかった時代背景を映像として観たことで、より一層その世界に没頭できるようになったのはたしかである。
両親と伯母に感謝
本を読む楽しさを教えてくれた両親と伯母に、私はとても感謝している。
「夜のピクニック(恩田陸 著)」に、うろ覚えだがこんな台詞があった。
俺が小さい頃、叔母さんがいつも本をくれたんだ。だけど俺は興味がなくて読んでなかった。でも最近になって、「ナルニア国物語」ってやつを読んでみたんだ。それで思ったことはさ、「なんでこれを子どもの頃に読まなかったんだろう!」ってことだった。子どもの頃に読んでおけばもっと違う世界が広がっていたかもしれないって。叔母は俺たち姉弟の年齢を考えて、その歳に見合った本をチョイスしてくれてたのに、俺はその計らいを無視してしまった。だからつまりさ、物事にはタイミングが大事ってことなんだよ。
この台詞に私はすごく共感した。私はほとんど大人になってからハリーポッターを読んだのだが、これを子ども時代に読める子はいいなぁ!と思ったものだ。子どもの感性で読んだ本と大人の感性で読んだ本とでは世界の広がり方が違う。どっちがいいというわけではなく、子ども時代に飛び込んだ想像の世界は、一生自分の中に存在し続けていく。誰にも汚されない自分だけの特別な世界だ。
そんな世界をたくさん持っていることは、とても幸せなことなのかもしれない。