ふたり暮らし

明日は明日の風が吹く

「大好き」のレベル

ふたり暮らし。「大好き」のレベル。

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それをやる理由は「大好き」だから

イチロー選手の有名なエピソードにこんなのがある。

 

記者「せっかくのシーズンオフなのに、どうして毎日球場に来てトレーニングしてるんですか?」
イチロー「野球が好きだから」

 

たしかに!と思った。笑
ほんとうに大好きなことだからこそ、試合のスケジュールに振り回されないオフシーズンに、思い切り好きな野球がしたいと思うのだろう。さすがイチロー選手!とつい特別なことのように思ってしまうが、でもこれって子どもはみんなやってる気がする。好きなことに夢中になりすぎて、親から「いいかげんにしなさい」って言われた経験は誰しもあるだろう。

 

寝食を忘れて打ち込めるのは、ほんとうにそれが好きだから。

 

自分がそれほどまでに好きだったことって何があるだろう?と思い起こしてみると、少なくともバレエは違うな、と思った。バレエはたしかに大好きだったし、バレエのない人生なんて考えられないと思っていたのも事実だが、じゃあもし先生に「明日から1週間、バレエのことは忘れて好きなことをして過ごしなさい」と言われたらどうするか?と考えたら、私は喜んでべつのことをしただろうと思う。やったぁ!バレエから解放されたーーー!という気持ちになったに違いない。

 

でも中には、その1週間を自主レッスンして過ごす子もいるだろう。以前も書いたことがあるが、先生から「寝なさい(休みなさい)」と言われているにも関わらず、その貴重なお昼寝時間にコソコソと起きて自習をしていた子もいたのだ。ほんとうの「大好き」というのはそういうことだ。

 

私が寝食を忘れるほどに夢中になった記憶があるのは、読書とお絵描きだ。文字通り寝る間を惜しんでやっていた。子どもにはよくあることだと思う。その当時は「バレエがいちばん好き!」と思っていたが、私にとってのいちばんはきっと読書とお絵描きだったのだ。

 

私はバレエのために毎晩ストレッチと筋トレを欠かさなかったのだが、それは先生が怖かったからと、周囲から遅れを取りたくないから、という今にして思えば他人軸の考えからだった。自分軸でほんとうに心底大好きだったなら、先生が超優しくても欠かさずやっていたはずなのだ。

 

だから、子どもの言う「大好き」には10段階くらいレベルがある、というのが実体験に基づいた今の私の考えだ。子どもは語彙力もなければ人生経験も浅いので、大人にとっては「(時間とお金に)余裕があれば続けたいな」程度の感覚のものであっても「大好き」という表現になったりすることもあるのだろう。

 

「努力」ではなくなったこと

今はもうバレエをやっていないというと、私を昔から知っている人はみんなとても驚く。「あんなに夢中でやってたのに!?」と。学校の友達にとっての私は「バレエで忙しい人」というイメージが強いのだと思う。

 

バレエをやめた今でも、毎日のストレッチとバーレッスンは続けている。健康のためというのも多少はあるが、ただ好きだからという気持ちが大きい。昔は毎晩のストレッチを「努力してる」「私はがんばってる」と思っていて、だから努力が報われないと「こんなにがんばっているのに…」と理不尽な思いをしていた。

 

今は同じことをしていても「努力してる」とは感じない。怖い先生の目がなくても自主的にやりたいと思うこと、「努力してる自分エライ」と思わないこと。それがほんとうに「好きなこと」と言えるのだと思う。

 

自分軸で考えるのは子どものほうが難しい

お母さんに褒められたいから。
先生に認められたいから。
みんなにすごいねって思われたいから。

 

これらは動機のひとつにはなるが、自分軸の考えではない。

 

親にいいかげんにやめなさいと叱られても続けてしまうこと。
たとえ先生に評価されなくてもいいやと思えること。
みんなに下手だなぁと呆れられてても気にならないこと。

 

これが自分軸で感じる好きなことだ。どの子にもきっとひとつはあるだろう。でもそれを自覚するのって難しい。子どもの世界というのは、どうしても親や周囲の大人からの評価に自分の存在価値を見出してしまうので、大人以上に自分のほんとうの気持ちに気づきにくいと思う。

 

かつての生徒さんに、身体的に非常に不利で大怪我をする未来しか見えず、「バレエの道に進むのは先生としては大反対だ」とまで言って止めた子がいた。でもそれを振り切ってバレエ一色の道に進み、予想通り膝を2回も大怪我したのだが、それでも辞めず、年齢的にバレリーナを志すのはもう不可能、となってからようやく方向転換をした。

 

今は就活中でバレエはまったくやっていないが、「やりきった。満足した」と言っていて、自分軸で決めたことはどんな結果になっても納得できるんだな、と私のほうが学ばせてもらった。
(怪我にハラハラしながらも見守り続けたご両親もすごい。)

 

その子のことを思い浮かべると、いつもキラッキラに輝いていた目を思い出す。「バレエ大好き!」と言っていた幼い頃の目の輝きも、成長し「自分の身体はバレエに不利だ」と知ったあとの目の輝きも、そういえばずっと変わらなかった。

 

自分軸でそういうものを見つけられた子というのは幸せだ。私も含め多くの大人たちは、ほんとうは今でもそれを探し続けているのではないだろうか。

 

「時間がない」
「お金がない」
「向いてなさそう」
「リスクがある」
「もう◯歳だし…」

これらの理由で探すことすらやめてしまっているのかもしれない。

 

目が輝くほどに「大好き!」なこと。死ぬまでにもう一度見つけたい。