ふたり暮らし。ぼやぁ〜っとした将来像。
甘々な子ども時代
前回の記事の続きみたいになるが、私は子どもの頃から明確な目標というのを持ったことがない。これはバレエを習う子にとっては致命的な欠点だった。
明確な目標が思い描けないとコンクールなどでいい成績を残すことができないし、モチベーションも続かない。私は明確な目標を持てなかったにも関わらず、周囲につられてなんとなくいろんなコンクールに出て、先生が怖いという理由でものすごく練習した。
先生の台詞でもっとも恐ろしかったのは、「できたと思ったら帰っていいわよ」というやつで、それはつまり「死ぬまで練習しろ」というのと同義語だった。毎日夜遅くまで居残りレッスンし、教室の鍵を閉める助手の先生が、「もういいかげんに帰るよー!」と強制終了させてくれるまで誰も帰れないという、悪魔の命令だと思っていた。
ところが驚くことに、助手の先生がせっかく強制終了させてくれたというのに、それでも鏡の前からなかなか離れない子がいた。みんなが着替えている間もずっと残って練習していて、本当に最後の最後、玄関で靴を履いた先生が、「◯◯ちゃん、いいかげんにして!置いて帰るよ!!」と怒ると、ようやく大慌てでレッスン着のまま上着を羽織って外に飛び出して来ていた。
強化コースの生徒たちは、夏休みになると朝から夜遅くまで教室に缶詰めにされ、レッスン三昧だった。受験勉強も宿題も、更衣室で開脚したりしながらみんなでやった。学年の違う友人たちと勉強を教えあったりもして、いい思い出といえばいい思い出だが、当時は地獄の日々だと思っていた。夏休みが大嫌いだった。
その地獄のサマーコース中、1日のスケジュールの中にお昼寝の時間があった。鬼のように冷酷だと思っていた先生も、さすがに生徒たちの身体は心配していたのだろう。「◯時になったら起こすからそれまで寝てなさい」と命令し、クーラーの効いた涼しい部屋で私たちは死んだように眠っていた。
そんな中で、なんかゴソゴソ動く気配があるなぁと思って目を覚ますと、いつも最後まで練習していたあの子が、ひとり起きて筋トレをしたりバーレッスンをしたりしていた。先生に見つかると「寝なさい!!」と怒られるため、先生の足音がすると慌てて寝たふりをしていたが、足音が遠ざかるとまた起きて動き出す。その子は私より年下だったのだが、よくやるよなぁ…と呆れ半分賞賛半分の気持ちでその姿を見ていた。
当然といえば当然だが、その子はプロのダンサーになった。
覚悟も実力もその子の足元にも及ばなかった私は、甘々な気持ちのまま中学を卒業し、高校生になった。私は表向きは「みんなと同じでプロを目指して死ぬ気で努力してます〜」「将来はプロのダンサーになりたいです〜」というふりをしていたのだが、そんな気持ちはとっくに先生に見透かされていたのだろう。ある日突然先生の部屋に呼び出され、「今すぐバレエをやめるか、オーストラリアに行くか選びなさい」と命令されたのである。
バレエが大好きだったので、今すぐやめるなんていう選択肢は私の中にはなかったが、かといって急に外国に行けと言われても困る。突然の命令に固まっていたら、先生は厳しい顔で「自分のやりたいことがなんなのか、苦しまないとわからない子もいる。葉月はそのタイプだわね」と言い、後日両親も呼び出され、「大学資金を留学費用に充ててください」と説得され、私のオーストラリア行きが決まったのである。
オーストラリアのそのバレエ学校には先生のツテがあり、これまでも多くの先輩たちが留学していたが、みんなのように希望に満ち溢れた留学ではなく、私の心境としては島流しに近いものがあった。
留学時代の話は長くなるので割愛するが、そんな甘ったれだった私なので、留学先では結構痛い目にあった。
当然だ。日本と違って周囲は全員がプロのダンサーを目指してしのぎを削り合っている。そんな中に将来の明確なビジョンも持たない東洋人がポイっと放り込まれたところで、馴染めるわけがない。最初の2〜3ヶ月はバレエが大好きという気持ちすら薄れ、ホームシックもあり、毎日泣いて暮らしていた。
なんとなくの予感
1年間の留学を終えて帰国し、1年遅れではあったが高校も無事に卒業した。卒業したあとはバレエの先生のツテ(コネ?)によってとあるバレエ団の下部組織に所属し、とりあえず表向きはバレリーナとして生きていくことになった。
しかしその実態はただのフリーターで、公演のない時はバイトに明け暮れる毎日だった。地方公演に駆り出されれば、私のようなコールド(群舞)は出演料より交通費のほうが高いので大赤字だし、公演のない時期はリハーサルなどで休んだ分のバイト代を稼ぐべく、きちきちにシフトを入れて、レッスンとバイトとで体力的にギリギリの生活を送っていた。
つくづく、バレエというのは実家が太い子か、もんのすごく抜きん出た才能がある子でなければ続けられない世界なんだなと思い知らされた次第である。
そんな宙ぶらりんな生活を送る中でぼやぁ〜っと浮かんでいた自分の将来像は、バレリーナでもなく、母親でもなく、ただ好きな人とふたりで生きていくという、ものすごく漠然としたものだった。
縁あってバレエの先生になったあとも、この仕事をずっと続けていくビジョンは浮かんでおらず、たぶん将来は違うことをしているだろうな…という、またもや漠然としたイメージだけが頭の中にあった。
予感的中
そして今、私の生活はご覧の通りだ。あんなに大好きだったバレエとはほとんど無縁の生活をしている。「バレエを踊れなくなるくらいなら死んだほうがマシ」とすら思っていたのに、今ではそう思っていたことが信じられない。
ぼやぁ〜っと想像していた通りの未来に、今私は立っている。
最近夫とその話をしていたら、夫もそういうぼやぁ〜っとした将来像と今の生活が同じだそうで、さらにその上で、「今の会社にずっといるイメージが持てないんだよね。たぶん定年までこの仕事はしてないと思う」と言う。
初耳だったが、夫がそう言うならそうなんだろうな、と思った。
正直私もそんな気がしていた。私の頭の中では、ずっと定住せずにあちこち転々と暮らす人生が続いているのだが、それが転勤によるものではなく、夫の言うようになにか違う仕事をしながら、転々と引越しをして暮らしていくのかもしれないな、とぼやぁ〜っと感じている。
甘々な私を案じて海外に放り出してくださった先生は、2年前に亡くなった。
葬儀などの一連の集まりでは昔の友人たちや先生方と再会し、近況を報告し合った。今でもバレエの世界にいる子といない子と半々くらいだろうか。中には自身で踊ることは辞めても、舞台の音響の仕事をしていたり、衣装を作る仕事をしていたりと、何かしら舞台に携わる仕事をしている子がけっこういた。
私を厳しく育ててくださった先生は、今の私を見てがっかりされているだろうか。それとも「…やっぱりね」と呆れておいでだろうか。
結局、明確な目標を持てない子は、何をやってもどこに放り出しても持てないままなのだ。目標や夢を持ち、努力して実現してきた人から見ると甘ったれのどうしようもない私だが、ぼやぁ〜っと浮かぶ予知能力だけは信用している。
だから、目標や夢を持てない人には、「なるようになる。大丈夫」と伝えたい。明確な目標がないまま生きていくのも、世間が言うほど悪いもんではないよなぁと思っている。