ふたり暮らし。母の背中。
目に焼きつく母の後ろ姿
子どもの頃、私は万引きをしたことがある。
近所にあったファンシーショップに、母と一緒に初めて行った時だった。母がお会計をしている隙に、可愛い消しゴムをいくつかポケットに入れたのだ。家に帰り、赤いキティちゃんの巾着袋にその消しゴムをしまい、見つからないように隠しておいた。
数日後、仲良しの幼馴染が遊びにきている時にその消しゴムを自慢げに見せていたら、母がおやつを運んで来て、当然その消しゴムの存在に気づいた。母は私が手にしていた巾着袋の中も覗きこみ、そこで事態を把握した。
その後の記憶はあやふやだ。両親に叱られた記憶はない。鮮明に覚えているのは、店員さんに頭を下げる母の後ろ姿である。
母は私を連れてファンシーショップに行き、「ちゃんとお店の人に謝りなさい」と言った。私はたぶん母に言われた通りに謝罪の言葉を述べたのだと思うが、よく覚えていない。ただ、その時の店員さんの「いいんですよ。間違えちゃったのよね」という優しげな言葉とは裏腹な、母を見る冷ややかな目が記憶にこびりついている。
店を出るまで、母は何度も何度も頭を下げて謝っていた。私はその母の後ろ姿を見ながら、「大変なことをしでかしてしまった…!」とその時になってようやく思い始めていた。
母の優しさ
その時のことを、私が高校生くらいの時に母が話していたことがある。テレビではじめてのおつかいを一緒に見ていた時だ。
「そういえば葉月が2歳だか3歳の時に、お店の消しゴムを黙って持って帰ってきちゃったことがあったのよ。お店ではお金を払ってからじゃないと物をもらえないってことがまだよくわかってなかったのね。あんたがいくつも消しゴムを持ってたのを見た時はどうしようかと思ったけど、これはいけないことを教えるチャンスだ!私が頭を下げる姿を見せなくちゃ!と思って次の日お店に謝りに行ったのよ。覚えてないでしょ?」
それを聞いて、私は「…へぇ、そうなんだー」と覚えていないふりをした。
私はよく覚えている。忘れるわけがない。母は、私がまだ小さくて「悪気なく持って帰ってしまった」と思っているようだが、事実は違う。私はそれをいけないことだとちゃんと知っていた。だから巾着袋に隠したのだ。悪気なく持って帰ってきたなら、家に帰って真っ先に母に見せているはず。
それなのに、母は私がそんなことをするはずがないと思ってくれているのだ。
…と、その時は思っていた。
母はすべてを知っている
でも今ならこう思う。母はきっと、真実を知っていると。自分の娘が、買い物の仕組みを知らずに悪気なく持って帰ったのではなく、意図的に盗みを犯したのだと。その上で、あえて私に「覚えてないでしょ?」と訊くことで、「あなたを信じているよ」と伝えてくれたのだ。
親にとっては信じたくない光景だったと思う。うやむやにして私の記憶を誤魔化すことも考えたかもしれない。でも母はそれをしなかった。「娘が万引きをしてしまいました。申し訳ありません」と謝りに行った。私が万引きという言葉を覚えたのはその時だ。でも私は、その言葉を「知っている」ということを長い間隠していた。そんな言葉を知っていること事態が、自分が最低な人間であることの証拠のような気がしたから。
当時の母はアラサーだ。今の私よりずっと若い。もし私が同じ立場だったら、果たして母と同じことができただろうか。自信はない。
母のおかげで今がある
外国で子育てしている人の話で、保育園で園児たちが使うコップや食器が重たいガラス製なのを不思議に思い、「日本だとプラスチックのコップを家から持っていくんです。軽くて割れないし、好きなキャラクターのついている物を使うとすごく喜ぶんですよ」というようなことをママ友に話したら、
「そんな軽くて可愛い物を保育園で使わせたら、子どもたちは入園したその日に盗みを覚えることになるじゃないの」
と驚かれたそう。
国によって子育ての考え方に違いがあって当然だが、これは日本人にはない発想だと思った。
「子どもが盗みを犯さないように、そもそも盗みたくなるような物をそばに置かない」という考えと、「子どもが盗みを犯した時に親としてはどう対応すべきか」という考えのこの違い。
どっちが正しいとか正しくないとかではないが、私はあの日見た母の背中を今も覚えている。私が道を踏み外す大人にならなかったのは、あの日の母のおかげだ。あの日の母の対応次第では、ろくでもない大人になっていたかもしれない。
しごく当然のことだが、母のおかげで今の私がある。時々、その当たり前すぎる事実に無性に感謝の気持ちが湧いてくる。